5/8 水曜昼柔術クラス練習日記

 

 

 

さて、この日は写真だけ。

 


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あとは俺の自己満足の完結だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「効果的な利他主義」といえば、いわゆる「最大多数最大幸福」という功利主義に端を発する考え方だと真っ先に頭をよぎるのだけれど。

 

なるほど、ピーター・シンガージョン・スチュアート・ミルジェレミ・ベンサムの系譜に連なる哲学者であるのでさもありなんという感じ。

幸福と人(に限らず)の快楽は計算できるものとして、すべての人間の行為を測ろうとする

まさにねえさんご指摘の通り幾分とち狂った面もあるのが功利主義者たち。

 

特にその祖となるジェレミ・ベンサムは自分の死体すら最大限に活用して欲しいとの思いからか、死後自分の遺体を剥製にして(銅像ではない)母校であるロンドン大学に飾っておけという遺言を残し、その遺志は実行されて現在もロンドン大学の地下倉庫にベンサムのオートアイコン(自己標本)として鎮座ましましておられるド変態だ。

 

ちなみに、かつては大学の玄関ロビーに一般的なブロンズの胸像がごとくドカンと鎮座おわしましていたようであるが、頭部を盗まれるなどの度重なる学生のイタズラによって不本意ながら地下倉庫に保管せざるを得なくなったというエピソードが、いかにもパンク発祥の地イギリスらしく微笑ましい気持ちにさせてくれる。

 

 

 

 

さて、利他主義といって1番わかりやすい例というのは寄付や募金の類いになるだろう。

 

目に見えない会ったこともない他者のために、利益を分配しようとすること。

 

ただ、これが案外に今の世の中で実践していくのは難しい。

 

 

 

おそらく僕らは自分だけが幸運に恵まれていることを無邪気に喜ぶほど愚かではないし、自分だけがかわいいような利己心の塊でもないはずなのだが、現在の社会やその様式、モードがそこから僕らを引き剥がそうと躍起になっている。

 

ピーター・シンガーはそれを倫理学や哲学などのアカデミズムの観点から、声高に異を唱え我々を啓蒙しようと試みているのだろう。

 

 

 

利他主義の反義語は利己主義だ。

 

今の社会の風潮やモード(思考様式)は、「人間は利己的である」と僕らに思い込ませて人と人を分断させ、

ある一部の人間に利益を得させようとする。

 

寄付や募金などといった類いは、現代の消費社会というシステムにおいてあってはならないものであり、無駄なものであり、革命のような危険を孕んだものだと見なされる。

 

なぜなら、贅沢(金銭に関することだけでなく)や浪費、そして寄付や募金は人の心に、内面に満足をもたらすからだ。

 

消費社会のシステムは人が満足することをよしとしない。消費社会と利己主義は切っても切れない関係にある。

 

 

 

「いくら消費を続けても満足はもたらされないが、消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。延々と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく。しかも過剰になればなるほど、満足の欠如が強く感じられるようになる。」(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)

 

 

現代の社会のモードとそれによって利益を得ている人たちは、

永遠に消費をしてもらいたいから

人の内面に満足してもらいたくない。

 

それどころか

人の内面をないもののようにみなし、人の内面を無視して振る舞うよう働きかける。

 

 

この問題に意識的なのがまさにピーター・シンガー國分功一郎といった哲学者たち。

 

そして、アカデミズムの立場からは遠く離れたといっていいか、全く別の立場の視点から

意図していたかどうかはともかく

いつものつかみどころのないのらりくらりとした文章の中に、これまた掴めそうで掴めない、答えというかこの現代のモードに異を唱える者に対する援護射撃のようなものを小説家保坂和志が書く芸術論の中に見つけることができる。

 

 

 

 

“彼ら” は他人の問題を自分の問題として引き受けない。“彼ら” は他人の内面はわからないんだと言う。もし、飢餓に苦しむアフリカの子どもの内面を私たちがわかってしまったらどうなるか?熱を出した小さい子どもを家に置いたまま仕事に出なければならない母親のように、私たちは仕事も何も手につかなくなってしまうだろう。だから他人の内面はわからない方が、わかろうとしない方がいい。それどころか他人の内面はないものとみなした方が、生きる上で都合がいい。

 

実際問題、

アフリカで飢餓に苦しむ子どもを、熱を出した子どもをひとり家において仕事にでなければならない母親のように感じることはどだい無理な話なのだ(だから寄付や募金は偽善である)。

 

と、いう考えは人間の内面を無視して、人間をただ外からだけ見て操作して、それによって利益を得ている者たちの自己正当化論だ。

 

ただ、

“彼ら” と言っても、その人々が仕組んだわけでなく、彼らは便乗しているだけで、人間を外からだけ見て操作している主体は、社会やシステムや時代だ。ということは時代の流れなら必然であり、我々はそれに抗えない。

 

 

と、考えるのは悲観主義だ。時代や社会なら、それはいずれ終わりがくる。終わりがきて別のことが起こる。芸術とは現状を肯定することでなく、世界や人間のあり方を断固として夢見ることだ。

 

夢見ることには気力も知力も体力もいる。夢見ることをやめてしまったら、ただただ現状に飲み込まれてしまう。

そしてそのために芸術は、人間の内面につく。人間には内面があることを示し、人間の内面を絶対的に擁護する。

 

 

 

 

 

 

僕らが世界と思われるものに対してできる善いと思われること。

目にみえないものへの利益の分配、自分ではないもの(他人)の内面をわかろうとすること。

 

 

アーティストたる者の定義と、世界をよくしようと試みる意義の両方がここには示されている。

 

 

 

 

話はまた戻る。

 

 

 

再び僕が遠藤ミチロウさんのことをメディアで目にするようになったのは 3.11後。地元福島の原発事故を受けて、なんとか自分たちミュージシャンも何か福島のためにできないかというイベントを遠藤ミチロウさん自ら率先して立ち上げて活動している姿だった。

 

以前の僕ならまた、何やってんだよ偽善者みたく、なんて思っていただろうか。

 

けど僕はその時、遠藤ミチロウさんを自分の中で遠ざけはしなかった。

 

もし遠ざけていたなら、今も遠藤ミチロウさんの死を知らずに過ごしていただろう。

 

 

 

あの頃の僕は間違っていた。

 

 

僕は、

何かを生み出し誰かの心に深く感動をきざみ、多くの人を行動させる力を持つ当事者としてのアーティストではなかったし、今ももちろんそうではない。

 

僕は、その世界の向かい側にいる

ただ痛みも責任も感じなくてよい場所で、批判や批評に息巻いているただの若造だった。

 

 

 

音楽で福島を救おうと、世界を変えようと

 

現状にのみ込まれず、世界や人間のあり方をより良いものにしようと断固として夢見る

アーティストとしての使命を最後まで貫いていた遠藤ミチロウさんは、

芸術家としていつだって正しくカッコよく戦っていたのだ。

 

 

僕は、間違っていた。

 

いつだって遠藤ミチロウは正しかったのだ。

 

 


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R.I.P. Michiro Endo