2/12 日曜朝柔術練習日誌 〜二月は僕の厄〜

 


嫁は気に入ったドラマがあると、とにかく何度もその良かった回をみたりしてるんですけど。

 

こっちとしては

(また、みてる。しかも同じシーンを、、)

(よく飽きないなー)

 

とかって思ってるんですけど。

最近では “逃げ恥” の最終回とかですね。

 

娘もやっぱり似たもんで、気に入ったアニメはホントに何回もみる方で。

 

今は “3月のライオン” 。

ちょっと前までは “四月は君の嘘” ですね。

 

学校のない土曜日の朝なんかに、ご飯食べたらすぐテレビの隣にあるピアノの椅子に座って “君嘘” を観賞するってのをしばらく続けてましたね。

 

けど、“四月は君の嘘” に関しては僕も前々から漫画読みたいなー、と思っていて。

 

タイトルがいいですよね。

ん?ってなっちゃう。

 

文法的には体言止めで

四月 “の” 君の嘘 が正しいんでしょうけど、

あえて 四月 “は” にした(間違えた)ことで人それぞれの多彩な解釈、感じ方を許すような効果を生み出しています。

 

四月は君の嘘(から始まった?)」

とか

「四月の嘘だからエイプリルフール?」

とか。

「じつは “四月” “君” “嘘” の名詞群と “は” “の” の助詞群の組み合わせによって、本当の意味が浮かび上がる?」

とかまで。さまざま。

 

それもこれも文法的に間違っているからこそ、引き起こるというか為せる技で。

 

文法的に正しいということは、言い換えればひとつの解釈しか許さないということなので。

印象に残りづらい。

それは本のタイトルとして致命的です。

 

正しいことって、感心はすれども感動はしないんです。

たいてい人が心を動かされるのは間違っていることだったりします。

 

 

そして、それはこの漫画の根底を流れる首尾一貫したテーマともリンクしていて。

 

“音楽は多様な解釈を許す、本当の自由そのものだ”

っていうテーマ。

 

 

 

確かにひとつ、その少女は出会った四月に嘘はつくんです。最後の最後にわかるんですけど。

 

いや、そこらへんは最初からだいたい予想はつくんですけど。

 

問題は四月に君がついた嘘は何なのか?ではないんです。やっぱり。

 

 

音楽(もしくは芸術、表現すべて)は自由で、十人十色の解釈をしていいんだという、この漫画の根底に流れるテーマを、

このタイトルがこれ以上ないくらいに伝えてくれているということです。

 

絶妙。

 

 

 

あと

 

この漫画、基本的に音楽の話なんですけど。

主にピアノの。

 

音楽って特に、大昔の天才が作った楽譜があって、演奏者はその作曲家の意図を忠実に汲み取って1音1音譜面通りに演奏することが至上である、という面は当然あって。

 

それこそ、どんな文法間違いも許さないというか。

まあ、学校の国語や英語のテストだって文法間違えてたらバツもらいますからね。

 

 

主人公の少年も、その呪縛に囚われてどうしようもなくなっていたんですけど。

 

 ただ、国語とか英語って言語なんで、本来相手とコミュニケーションとるツールなわけで。

正しい、正しくないじゃなく、大切なのは伝わるか伝わらないかなんでね。

 

そんな少年が

音楽もミスしたり、めちゃくちゃでもいいから多彩な、いろいろな人に伝わる、感動させる演奏をする少女に出会って変わっていくという。

 

まあ、よくあるっちゃよくある話なんですけど。

 

けど、そんな話を軸に据えた数多ある陳腐な作品のひとつとして “君嘘” を収束させていないのは、ひとえにこの作者新川直司さんの表現力にあると思います。

 

例えば、印象に残るシーンとしてこういう場面があります。第6巻にて、主人公の好きな女の子と夜道をふたりで歩くシーンです。



f:id:NumackenzieDern:20170212173057j:image


f:id:NumackenzieDern:20170212173109j:image


f:id:NumackenzieDern:20170212173221j:image

 

 

彼女の家で楽しい時間を過ごして、自分の家までふたりでって至福の時なんですけど

 

1ページ目の少年が印象深く感じているのは、彼女とふたりで歩いているっていう高揚すべき感情ではなく、

 

なんてことはない

「ホイールの金属音」や

「不規則な足音」や

「舌に残る紅茶の微かな渋み」や

おそらく何を言ったのかも思い出せないような(むしろ内容はどうでもよい)、ある意味単なる音としての

「たわいもない会話」です。

 

 

風景描写で登場人物の心象を描くというのは、ジャンルは全く異なりますが “闇金ウシジマくん” でもよく見られます。

 

あちらは、絡み合った電線や枯れた草花などで不穏さや不安感を表します。

 

 

ホイール、サンダル、電線と星空、アスファルト

 

この風景描写だけで

、たしかにあったあの夏の静かな夜、

 

思春期特有のものなのか

世界で君と僕ふたりだけだったような、あの頃の感覚をよみがえらせます。

 

 

ただし、ここにあるのは喜びではなく寂しさです。

 

夜は昼に見えるいろいろなものを隠してくれて、

世界で君と僕のふたりだけのような気にもさせてくれるけど。

 

世界で君と僕だけだから寂しい、という。

 

 

 

 

 

 

しかも、このシーンはかなり重要な部分が他にもあって。

 

じつはネタバレするとこの女の子死んじゃうんですけど、

 

2ページ目

この少年のモノローグ

 

「それでもよく覚えているのは──」

 

って言っちゃってるんです。

 

少年の視点が死別かどうかはわからないにせよ、明らかに彼女ともう一緒にはいない未来からの視点になってんですね。

 

現に、ここからこの女の子は身体がどんどん弱まっていって、それは最終巻の11巻で結局死んでしまうまでいってしまいます。

 

この漫画全11巻なんですけど、このシーンの収録されてる6巻ってちょうど真ん中の折り返し地点なんですね。

 

ふたりの関係もこれがピーク。

 

頂上。

 

頂上っていうのは寂しいんです。やっぱ。

 

 

もう下るしかないから。

 

 

それにしても

絶妙なタイトルといい、風景描写を使った表現力やピークをちょうど真ん中にもってくる話の構成力といい、

 

 

 “ONE PIECE” の尾田栄一郎先生もテレビで嫉妬していらっしゃいましたけど、

 

作者の新川直司さん、相当なもんだと思います。

 

 

 

…なんだか、熱く語っちゃいましたけど。。

 

さっき高校生から借りた全11巻読み終えて、ボロ泣き&興奮覚めやらぬ勢いで書いちゃった次第。

 

 

ちなみに、貸してくれた男子高校生は

今の僕以上の熱さでもって指導時間の半分プラス延長の1時間、合計2時間でもってラブライブについて語りやがります。